三重大学人文学部准教授

 

1997年 文理学部哲学科卒業 

                         

 1993年4月8日の日比谷公会堂での入学式。新緑が美しい日比谷公園を女子大出身の母と歩いた景色はいまでも鮮明に覚えています。高校時代、演劇ばかりやっていた私ですが、女子大の哲学科に入学をしたことは、英米文学科卒業の母をはじめ、父も祖母もとても喜んでいました。それから15年後の2008年、私は東京女子大学大学院博士課程の初の博士として、当時の学長の湊晶子先生から博士号第一号の学位記をいただきました。学部入学当時の誰もが、まさか私がそんなにも長く女子大で学生生活を送り、さらに博士号を取得し、研究者になるとは想像もしなかったことです。

  哲学科の先輩で劇作家・演出家の如月小春さんに憧れていた私は、学部入学後も授業よりも演劇活動を熱心にやっていて、いまはなきシェイクスピアガーデンで芝居をしたりしていました。しかし、学部2年生から哲学の専門の授業が始まると、だんだんと哲学という学問の面白さに魅了されていきました。当時の女子大の学長は、ライプニッツ研究の山本信学長、そして、哲学科には、デカルト研究の伊藤勝彦先生、美学の久保光志先生、カント研究の黒崎政男先生、ハイデガー研究の森一郎先生という4人の専任の先生方が揃い、非常勤の先生方も実に贅沢な講師陣ばかりで、いま振り返っても綺羅星の先生方による一流の授業が行われていました。それぞれの先生方の授業を通して、まさに女子大の本館に刻まれた“Quaecunque sunt vera”という真理を求める哲学の豊かさを知った私は、卒業論文で扱ったカント哲学をもう少し学びたいという気持ちから大学院に進学しました。

   修士論文を書いたら哲学はやめようと普通に思っていましたが、大学院時代の同級生たちが熱心で、さらに哲学の魅力にはまっていきます。ただ、その当時の女子大の大学院は、修士課程までしかありませんでした。修士課程修了後、私は横浜市立大学大学院の博士課程に進学しますが、ちょうどその頃、湊先生が学長に就任されて、女子大に博士課程ができることを知ります。随分と悩みましたが、横浜市立大学大学院の指導教官でいらした佐々木能章先生が女子大の哲学科に転任するという偶然も重なり、2005年に私は大学院人間科学研究科の博士課程を受験し、再び女子大に戻ります。

   それからの3年間は、博士論文執筆のための怒涛の日々となりました。指導教官の黒崎先生は、これまでの卒論、修論とは異なる厳しさでもって論文指導を行なってくださいました。いま思えば、先生のご指導には全く応えられていなかったと反省しますが、それでもほぼ毎日、夜の22時まで院生室に残って勉強し、昼間の景色とは異なる薄暗いキャンパスで月の光を見上げながらカントのテキストと向き合っていました。ちょうどその頃、女子大をはじめ、複数の大学で非常勤講師も始まったため、ノートパソコンを持ち歩き、時間さえあれば電車の中でも論文執筆を行い、生活全てが博士論文を中心に回っていたように思います。

   とはいえ、孤独に論文執筆をしていたかといえば、そうではなく、同じ時期に博士課程に進学した一期生や後輩たちとは、専門も分野も全く違うのですが、研究者を志す同士として、時に励まし合いながら論文執筆をしていたのはよき思い出です。そして、何より先生方や職員の皆さんの応援も暖かく、学長の湊先生は折に触れて、博士の学生たちを気遣い、祈ってくださいました。あっという間の3年間でしたが、後にも先にも、多くの方々の想いと応援を受けながら、博士論文を執筆できたことは、本当に有難くかけがえのない時間でした。そして、至るところで、女子大のsomethingの精神を感じることができ、そのsomethingに突き動かされて論文を書いていたように思います。それゆえ、湊先生から博士号の学位記をいただいた時、その重みに身が引き締まり、溢れる涙を抑えることができませんでした。

 

   現在は、三重大学人文学部で哲学の教員として学生たちと向き合っています。私の哲学教育の原点は、女子大の哲学科で培われたものですから、哲学の豊かな魅力をわかりやすく伝えられるよう授業に取り組んでいます。また、私のもうひとつのライフワークである演劇についても演劇評論家として関わることができているのは恵まれたことだと思っています。

  創立百周年を迎えた女子大は、次の百年に向けて歩み始めています。日本の大学のあり方が変容する中で、創立以来のキリスト教精神に支えられ、リベラル・アーツに基づいた知を自由に探求する女子教育の理念は変わらずに続いてほしいと希望しています。