東京女子大学名誉教授

 

1956年 文学部英米文学科卒業 

 

 

 三十年ほど前のある春の日、父の定番の昼食であるミルクティーとクッキーズをのせたお盆を書斎に持っていった時のこと。父は静かな声で「あなたはよい人生の道を選びましたね」と言った。当時、父は九十歳、私は五十歳だった。突然の言葉だったが、少し改まった口調から、この世を旅立つ前にこれだけは言っておきたいと考えていたことが察しられ、私も「ありがとうございます」と静かに応えた。人生が「よい」か「わるい」かの判断は主観的なものだが、私にとっては、東京女子大学の在学中から三十年間、表面上は平穏な父娘関係の水面下で続いていた緊張が消えた瞬間だった。

 私が東京女子大学に入学したのは1952年。第二次世界大戦の敗戦から7年、戦後の学制改革で国立大学も女性に門戸を開き、制度上は女性が高等教育を受けることへの障害はなくなっていた。私は東京女子大卒業後、東京大学大学院に進学、英文学専攻の修士課程を修了した後、フルブライト留学生としてアメリカへ留学。二年後に二つ目の修士号を取得して帰国後、東京女子大学の英米文学科の助手として採用され、以来講師、助教授、教授として44年間、充実した日々を過ごさせていただいた。

 その人生の節目、節目で、進路について父と対立した。父の説く結婚し、家庭を築き、夫を扶けるという「女の道」を何度聴いたことだろう。幸いなことに母のとりなしで(母は専門学校卒業後、一年だけ教職についたが結婚。それについて語ったことは一度もなかった)私の希望はいつも叶えられた。私も、少なくとも建前上は、東京大学の授業料以外の負担はかけないと約束した。しかし、このことは、父が特に「封建的」だったということではない。これが当時の社会の状況だった。その一例。東京大学の入学式の後、英文科の研究室でのオリエンテーションで主任教授はこう言われた。「女子学生の博士課程への進学は認めない。就職の斡旋もしない。」その言葉を、皆当たり前のように聞いていた。

 父との対決で一番激しかったのは、1969年、二度目のアメリカでの研究生活を決意し、日本人女性としては初めてアメリカ学術団体協議会(ACLS, 財源はフォード財団)から潤沢な助成をいただけることになった時である。三十代半ば、おそらく父の考えでは「女の道」を選択できる最後の時点だったのだと思う。議論が激して、感情的になり涙をこぼしたことを記憶している。

 印象批評が主流だった当時の日本の英米文学研究に物足りなさを感じ、文学・芸術を時代、社会、政治のコンテクストの中で考えることに興味を持っていた私は、日本での研究生活をもどかしく思っていた。幸いにも、批評理論の最先端を行く、Yale大学大学院のアメリカ研究科から正規の研究員として在籍する許可をいただいた。また、東京女子大学からも研究休暇のお許しがでた。それが、父を説得する切り札だった。

 New Havenの街で過ごした一年半は、研究者として、教師としての私を形成した大切な時間だったが、ここではその間、父とどう向き合ったかということを結びとして記しておきたい。太平洋とアメリカ大陸という大きな空間に隔てられた距離を利用して、日記を書くように私は手紙を書いた。世代の違いの意味を理解し始めていたのだと思う。相手を否定し破壊するのではなく、世代の積み重ねが文化なのだということを。私の手紙を父がどう読んだかは分からない。ただ、父が亡くなった後、100通あまりの私の手紙が、父の机の引き出しの中に赤い綺麗な菓子箱に入れてしまわれていた。几帳面な父の筆跡で、受け取った日付が赤鉛筆で記されていた。その手紙を広げてみたのが、添付の写真である。

冒頭の写真は、Yale大学在籍中、これらの手紙を書いた頃のもの。