日本語教師

2000年 現代文化学部言語文化学科卒業

 

 

 私は、現在、日本語教師として、大学や専門学校で留学生に日本語を教えたり、企業で働く外国人ビジネスパーソンへの日本語研修、あるいは就職活動をしている外国人学生のサポートなどの仕事をしています。

 外国人に日本語を教えるための勉強は養成講座でしっかりしたつもりでしたが、もう少し幅広い視点で「外国語としての日本語」を勉強してみたいと思い、日本語教師になって5年ぐらいがたったころ、大学への編入を決めました。1997年のことです。

 その年、東京女子大学では社会人編入学制度がスタートし、私はその第1期生として2年次に編入しました。当時はいわゆる大人の学生が少なかったので、入学式の日に講堂に入ると当たり前のように父母席に案内されてしまい、このあとやっていけるのかと不安に思いました。3年後の卒業式では、その同じ講堂で卒業生代表のスピーチをさせていただきましたが、演台に立ったとき、自分がしっかり東京女子大学の一員になっていることを感じることができとても嬉しかったことを覚えています。

 大学では、純粋に自分自身の興味があることを学びました。仕事に役立ちそうだからではなく、面白そうだからという理由で学ぶことができたのは本当に幸せな毎日でした。また、一見当たり前に思えることを感覚ではなく、きちんとデータをとり分析しまとめるという作業を通して、科学的な物の見方を学びました。そして、当時の男性社会で10年以上を過ごした私にとって、「女子大」という場で性別を気にせずのびのび過ごすことができたのは、その後の人生の大きな自信となりました。

主人の実家(ケニア)で炊事中

 卒業後は、ゼミの担当教官の「親御さんがあなたの助けを必要としないうちに、海外で教えてみるのもいい経験になるわよ」のひとことで、青年海外協力隊に参加し、ケニアの観光専門学校で日本語教師隊員として、2年間を過ごしました。帰国後すぐに母の介護が始まりましたので、あのタイミングを逸していたら、海外で教えることはできなかったかもしれません。帰国のご挨拶に大学に伺ったところ、ちょうど私が在籍した言語文化学科の事務助手を探していて、思いがけず職を得ることができました。学生として3年間、職員として4年間、私は東京女子大学を2倍楽しむことができたと思っています。

 私たちは、人生のさまざまな局面で自分の進むべき道を考えなければならないことがあります。そのときは、流れに逆らわず、でも、何か風が吹いてきたときには恐れずにその風に乗ってみることが大切なのではないかと思っています。