1972年 文理学部社会学科 卒

光風園病院 副理事長

 

 

 

 

東京女子大学の正門に立ったのは17歳の春でした。下関の男子高校(男子350名対女子15名)にいた私は女子大学に憧れ、下見のために上京。大学の正面に立った瞬間、その佇まいの美しさに一目ぼれ。絶対この大学に入ると決めました。入学後、大学紛争が本格化。女子大学で初めてのバリケードと週刊誌に取り上げられました。大学は休講状態でしたが、毎日大学で仲間と熱く議論を続けていました。

専攻は社会学科経済コースと決め、「現代民主主義の再検討」という大それたテーマの卒論を手書きで原稿用紙に書く作業に没頭したのも懐かしい思い出です。

本来はマスコミ業界で働きたかったのですが、就職活動などほとんど行わなかった世間知らずは当然ながら、すべての就職活動に失敗。ゼミの先輩が立ち上げた政治工学研究所に拾い上げてもらい、お役所や政治家の政策立案のお手伝いをしました。仕事は面白かったのですが、当時の男女差別は今の比ではありません。特にお役所はひどかったと記憶しています。そこで一念発起。資格を取ろう、それも絶対的な国家資格を。お金の計算は苦手なので公認会計士は無理、東女時代は六法全書には苦労したので弁護士も無理、親が医師だったので、医師なら何とかなるかもしれない。5月の連休に高校時代使った数学の問題集に挑戦、連休明けに辞表をだし受験勉強に没頭。26歳で東京慈恵会医科大学の1年生になりました。

医師を選んだもう一つの理由は、マクロとミクロの両方のアプローチができるのではないかと言う点。社会学を専攻し、政治・行政の世界に身を置くと、どうしてもマクロの世界が主役。小数点以下は切り捨てざるを得ないのを実感していました。科学としての医学はマクロの世界ですが、患者さんと接する時は一人一人を大事にするミクロの世界。実際に医師になり、その面白さ、醍醐味にはまっています。

 

30代は国立病院で先端医療、40代ではカンボジアでの国際協力、その後は医学教育に関わり、今は母の介護をしながら高齢者医療に携っています。その医師としての人生の中で、私の大事なバックボーンは、東女で過ごした日々です。社会の第一線からはちょっと距離を置いた世界で、様々な文化に囲まれ、友人と議論を重ねた日々。何が正しいのだろうか、私たちは何を目指して生きていくべきなのかなど、いわゆる青臭い議論に明け暮れた日々。その精神的な豊かさが今の私を支えていると言っても過言ではありません。医師にはブレない正義感;Justiceが必須です。この価値観は促成栽培が困難であることは、医学教育の中で実感しました。あのキャンパスの中でよき仲間と過ごした日々が私に大事な根を植え付けてくれたのです。感謝の気持ちで一杯です。

この大事な文化が次の世代にも引き継がれていくことを心から願っております。