1955年 文学部社会学科(日本史)卒業

 

入学しました1951年は、太平洋戦争が終わって7年目、新しい体制にようやく慣れた頃でした。私は千葉から国電で通学しておりました。都心は戦火から免かれたものの、沿線の下町は焼土復興の只中にありました。やっと西荻窪の駅に着くと、北側の方に女子大のチャペルの尖塔が凛として見え励まされる思いでした。空襲を避けるために塔はまだらに黒く塗られていました。間もなく塗り直され真白な元の姿が青空に映えて見えた時は、聖堂の鐘楼のように輝いて見えたのを覚えています。

通学は満員電車でした。ある時西荻窪の駅で国電の最後車両の車体に横断幕のようなものが目に入りました。何と、そこには黒字で、occupiedと書いてありました。車の中では米軍の将校らしき人が悠然と葉巻を楽しんでいる姿が目に入りました。立川に基地があったからです。このように、占領下にある屈辱感を現実の事として深く思った日もありました。

斎藤勇学長の宗教講義が毎水曜の3・4時限に講堂でありました。全学集会と言っておりました。キリスト教のお話は忘れてしまいましたが、お話の合間によく英詩の紹介がありました。例えばワーズワース、キーツ等です。今でも水仙の歌は大好きです。詩人の故郷を訪れた折、水仙の花には遅すぎましたが、生家の壁をつたう薔薇が満開で、学長先生のお声を耳にしたように思ったものです。

美術史の講義のこと。当時は今の様にスライドも何も無い頃でした。新規矩男先生が、ご自宅から美術全集をお持ち下さり学生の机の間をゆっくり歩きながら、ボッティチェリの聖母子像の複製画を見せてくださいました。その時、私は身体の中を一条の光が貫いて行ったような感動を受けました。今同窓会宮城支部で美術館を楽しむ会に参加しましたのも、この時からの執念がそうさせたのでしょう。

日本聖公会仙台キリスト教会にて
司祭さま(中央)と私たち

私は現在仙台市に住んでおります。
七年前の東日本大震災からの復興もかなり進んではいます。中でも被災地の高校生、大学生達の活躍ぶりはすばらしいものがあります。次の世代に大きな期待をしています。私も自分の力に応じて、所属する教会をベースに被災者の方々と共に歩み、祈りながら復興の夢を実現するお手伝いが出来れば幸いと思っています。